安保法制では国民のリスクは

安保法制とは何を目指すものなのか

これが,国会での政府の説明を聞いていてなかなか見えてこない。一生懸命理解しようとして,今のところの私の理解は以下のようなもの。

日本の安全保障環境が悪化してきているから,国民を守るためには「日本を攻撃したらアメリカが黙っていないぞ」ということを確実にするために,場所を限定しないで,その時弾が飛び交っていない場所なら,米軍に自衛隊が物資を供給できるようにするという法案。

日本の 安全保障環境が変化してきているということは否定しない。中国の「南沙諸島は自国の領土,ケチをつけるのは不当」と主張して埋め立てをすすめるというやり方を見ているとそう思う。だが,その対処法は「集団的自衛権」ではない。

日本を守るには抑止力が必要という論理


日本は,アジアの果ての島国という地理的条件もあって,アメリカに支配されるまでは他国に支配されることはなかった。日本に攻め入った国としては元を思い出すが,元が上陸したときも,カミカゼがなくとも,補給がうまくいかないので全土を支配し続けることは困難だったろう。

アメリカに支配されるようになったのは,日本が「国を守る=利益を守るために外国を自国のものとする」ことを考えたが,軍事力がアメリカより弱かったために負けたため。軍事力では国民を守ることができなかったという経験だ。

もちろん大戦の時代には,世界の経済的に豊かな国がその豊かさを守ろうと軍事力で植民地を広げていった。日本もその思考をそのままなぞっただけなのだが。結果として,日本は,軍事力で国をまもろうとして,国を亡ぼしたことは事実である。軍事力で守らなかったらもっとひどくやられていたという詭弁を聞くことはあるが。

今の政府も,国を守るにはあらゆる手段を考えるべきなのだが,「軍事力」しか視野にない。中国や韓国と,お互いに対立をあおるような行動をとっているが,それでは「妥協」は生まれない。平和は「適切な妥協」からしか生まれないのだ。

自民党の憲法観が怖い


今回の議論で,私が一番恐ろしく思っているのは自民党の憲法観。憲法が状況に合わなくなったと政権が考えた時には,正規の手続きを経て憲法を変えるのではなく,それを破っても良いと考えていることだ。これは,立憲政治の否定だ。

立憲政治の概念を自民党は理解していない。 国家の政治権力はそれが確立していないと混乱がおきて国民も困るのだが,一方,国家権力を制約する力はどこにもないので好き勝手ができる。そのため,どんな立派な権力でも,必ず権力は腐敗するのだ。それなりに善良な私だって,どんなことをしてもそれが通るのだったら,気が付いたらわがままな困ったオヤジになっていることだろう。

それはどのような政治形態でも同じだ。「資本家のための政治ではなくて人民のための政治だから腐敗しないのだ」と豪語する権力もあったが,そうではないことを歴史は証明している。

民主主義がすぐれている点は,権力に制約を加える仕組みを作り上げてきたことだ。権力の行使は法律にもとづかなければならないし,法律は憲法の範囲内でつくられなければならない。このようなしくみがあるので,支配される側は少しは安心して支配をうけることができるのである。「憲法に違反しているじゃないか」と権力に対抗することができるのだから。


立憲政治(と民主主義)の否定は,自民党の改憲案を読み込んでいくとわかる。自民党が近代民主主義の基本理念を理解できずに否定し,明治国家に戻ることを理想としているのだ。

人が「個人として」尊重されるのは自民党の感覚からするとよろしくないので,「人として」尊重されると直したくなるのだが,政治の主体としての個人がいるというのが民主主義の

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masao
ゲイツ,ジョブズ,さんまと同じ1955年生まれ。 この春から自由人?に。