もう一度,自民党の改憲案を知ってほしい 参議院議員選挙

今回の参議院議員選挙では「改憲勢力」が3分の2を占めるかどうかが最大の問題だと報道する新聞がある。私も同感。

これについては,二つの論点がある。一つは,安倍総裁は「選挙では」改憲を争点とはしようとしないが,「選挙後は」私が信任されたのだからとそれを進めようとすること。前回の衆議院選挙後はまさにそうだった。長年の経緯を無視して,突然,集団的自衛権の行使を容認するのは実質的に改憲だ。

この度の選挙戦でも「改憲」は政策として取り上げない。野党の議論に決して乗ろうとしない。しかし,選挙後は……。

もう一つは,「改めたい」内容だ。憲法を金科玉条として一文字たりとも変えてはならないとは思わない。しかし,自民党の現在の改憲案は,個人としての一人一人の国民が主権者であるという民主主義の基本的考え方がどうにも肌に合わない人たちのつくったものなのだ。

それをよく表しているのが,多くの箇所で「個人として」を「人として」に置き換えていること。油断していると気づかないが,これは,民主主義の否定だ。

一般的な「人として」正しいことからはずれた行動は人権として保障されないのだ。個人の勝手な行動を「人権」として主張されることに対する違和感・不満がこの変更にあらわれているのだ。「赤信号,みんなで渡れば怖くない(ビート・たけし)」はあっても「みんな違って,みんないい(金子みすず)」は「美しい日本」の伝統にはない。

また,公の秩序に反するという理由で基本的人権を制限できるというのは,一見「当たり前」のように思ってしまう人もいるだろうが,権力が一人一人の個人にとって邪悪なものになりうるということを忘れてはならない。ヒトラーなどの例をあげるまでなく,歴史を見ればそれはありふれたことだ。だから,権力に一人一人が押しつぶされないよう,基本的人権を「侵すことのできないもの」と規定しているのだ。もちろん,権力がなければ社会が混乱することも事実で,権力二面性をきちんと理解していなければならない。

権力を愛する人は,自分を権力を行使できる側にいるとイメージして考える。行使される側にいるとイメージしては考えない。もちろん,行使する側に立つ人も少数いるのだが,ほとんどの人は行使される側だ。でも,結構な人たちが,権力に押しつぶされる自分を射イメージできないのはなぜだろう。

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masao
ゲイツ,ジョブズ,さんまと同じ1955年生まれ。 この春から自由人?に。