失敗が約束されている新指導要領 アクティブラーニングはうまくいかない
中央教育審議会が次期学習指導要領の中間報告を公表した。「アクティブ・ラーニング」が今回の目玉だ。
ゆとり教育は正しい
詰込みではない「主体的」学習をというのは正しい方向性だ。高度成長期のように,追いつくべき対象のある時代には,できるだけ長い時間勉強して知識を覚えることは有用だったが,「高い付加価値を生む」国際競争力のある労働力が詰込みや長時間の勉強で生まれることはない。
実は,「ゆとり教育」として否定されるようになってしまった,現行の一つ前の指導要領は「主体的学習」を目指していた。
1996年の中教審第1次答申の中で、「我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた」とある。
だが,この教育課程は十分に成果をあげることなく「多くの知識を長時間にわたって教え込む」教育にもどることになった。週休二日などとんでもないのである。もちろん,このような教育で日本の国際競争力が上がることはない。(国際競争力を上げることが教育の目的ではないが。)
主体的学習が失敗する理由
このような経緯を見ていくと,「アクティブ・ラーニング」は,あらかじめ失敗が約束されていると考えざるを得ない。そうなる理由を以下に述べる。
1.教師のあり方
うまくいかない理由の一つは,教える側の問題である。日本の教師は「教え方」を学んでいない。小中の教員の多くは教育大学出身なので,大学である程度「教授法」を学んでいるのだろうが ,高校では教員になった時点では,「教科教育法」という単位を大学の教職課程でとっただけである。どうやって授業をするかということになると,結局,自分が受けてきた授業を良くも悪くも「再生産」するということになる。となれば,「主体的に学ぶ」授業を受けたことのない教員に,生徒が「主体的に学ぶ」授業ができるわけはないのは当然である。
そんな教員が一生懸命 「アクティブラーニング」に取り組もうとすると,「これって,グループ学習のこと?」と考えてしまう。しかし,たいていのグループ学習は「主体的」なものではなく,班の一員として与えられた役割を果たすというものになっている。つまり,議論・探究という主体的な学習とは異なるものになっているのだ。
アクティブラーニングについての本を読むと「協働」という言葉が多く見られる。グルーブづくり,学級づくりがアクティブラーニングの要なのだそうだ。主体的学習の第一歩は「個」の確立だと思うのだが。
2,親の考え方
親も,自分が受けてきた教育を基準に考えるから,勉強とは「試験に受かるための知識を(できるだけ効率よく)教わるもの」と理解する。だから,「ゆとり教育」も「アクティブラーニング」も理解されることはなく,「ちゃんと教えて」という不満につながるのである。
国民性の問題
結局,アクティブラーニングが不可能だと私が考える理由は国民性だ。主体的に考えることは「和をもって尊しとなす」日本人にとって難しいことなのだ。歴史上,普通の日本人が主体的に考え,行動したことはないからできないのだ。そして,今日も,私たちは自分で考えて行動するのではなく「空気を読んで」行動しているのだから。
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